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連載インタビュー「私とアフリカ、私とTICAD」【2】黒河内康さん

これまでアフリカやTICADに関わってきた方々への連載インタビュー第2回目。今回は外交官として在タンザニア日本大使館及び在ナイジェリア日本大使館で特命全権大使を歴任され、アフリカ開発会議I担当大使を務められた黒河内康さんにお話を伺いました。

黒河内大使1————————————
黒河内 康
【略歴】
外務省入省後、アフリカ課長、在ケニア日本国大使館参事官、在タンザニア日本国特命全権大使を務めてJETRO役員になるため外務省を退官。後に外務省に再雇用されて在ナイジェリア特命全権大使、TICAD I担当大使を歴任し、在スイス特命全権大使を最後に退官。アフリカ協会特別顧問を務め、現在市民ネットワーク for TICAD 個人会員として活動中。
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〇黒河内さん、こんにちは。本日はどうぞよろしくお願いいたします。黒河内さんは現役時代、外交官としてアフリカに関わってこられました。
●私がアフリカに赴任した当初は旧宗主国との結びつきが強く、日本との関係はあまり深くありませんでした。アフリカで初めて赴任したケニアでは大使館の次席を務めました。ケニアに行ってすぐに世銀・IMF総会が行われましたが、大蔵大臣、経済官庁、銀行、保険、証券等日本から百何十人も来て、たった6人の大使館員で対応しました。その中で、日本の有力金融機関の代表者が、抽選の具合でナイロビから離れた自然公園の中にホテルがあたり、しかも一日に一本しかバスがないということで大変なこともありました。世銀の事務所に電話をかけてなんとか街なかのホテルに一部屋をとってもらってということもあったことを思い出します。

〇私たちのネットワークに関していえば、初めてのTICADの共催者委員会で議長を務められたのですね。
●最初は急に言われて。私はマルチラテラルの会合は初めてでした。私はそれまでバイラテラルな会合が多かったものでしたから。
外務省人事でナイジェリアから帰国後、当時私は俗称「北海道大使」をやっていました。北海道庁との窓口をしておりました。北海道でも時々アフリカの事案で呼ばれれば出向いました。そのころから(社)アフリカ協会にも時々顔を出していました。
TICADに関しては、その頃からある程度日本がアフリカの開発に関する国際会議を行うという雰囲気が外務省の中でありました。今振り返ると結構適任者がたくさんいたのですが、私しかいないとかで外務省より頼まれました。
そのころは「TICAD」という言葉もありませんでした。米国からは「タイカッド」と呼ばれることもありましたけれども、日本ではローマ字読みで「ティカッド」呼んで、恥ずかしながらそれが残って今年で22年にもなってしまいました。

〇そのころのアフリカを囲む国際潮流はいかがでしたか。
●当時欧米諸国側は、アフリカにいくらお金を拠出しても変なところに流れてしまう、成果が上がらないことで、援助がアフリカに流れなくなっていました。先進国、アフリカの宗主国の中に力を入れようという国はありませんでした。そこで日本が声を出したのがスタートでした。
日本がTICADをやることについて、西側のどこかの国は、日本がやるのは一発花火だと言ったとか聞きました。二度三度もないだろうとも噂されていたようです。とはいえ、西側諸国が発起人になって自分たちでやろうということにもならない。「援助疲れ」の流れの中で日本が出てきたわけです。そのようなことを言われていましたので、あまり頼りにされていなかったなと思いましたが、日本としてもますます頑張ろうという気になりました。

〇第一回TICADではどのようなことが話題となったのでしょうか。
●TICAD Iの主たるテーマは、「オーナーシップ」と「パートナーシップ」をはっきりと位置付けて、アフリカが自分で「オーナーシップ」を胸にしっかりときざみつけてください、国全体、政界もNGOも含めて全体でということでした。そういう面でNGOについて触れてはいましたが、NGOの寄与という面ではあまりはっきりしたことは書かれませんでした。準備会合に集まった人たちの意識にもよるわけですけどね。出てこなかったことを書くことはできませんでしたので、しょうがない点もありました。
アフリカが主役になることが基本で、当時は国際的な場面でアフリカはアフリカのオーナーシップでやっていこうという流れでしたから。とはいえ、会議全体としてみると「オーナーシップ」に対するアフリカ諸国の意識はあまりありませんでした。そのような中で準備会合において、「オーナーシップ」はアフリカですと出てきたわけです。そして、「オーナーシップ」を前提として、「パートナーシップ」として先進国や国際機関が一緒になって協力。日本が一方的に援助してお金がなくなってしまったということではなく、はっきりした意識を持ってもらうということとなっていきました。
「オーナーシップ」については、私は当時あまり知らなかったのです。誰かが言うものですから。それでいろいろ考えた末、今なら使って効果的だろうということで盛り込まれたわけです。「パートナーシップ」と対になる言葉でもありますしね。「私はアフリカのオーナーなんだ」と。「アンチコロニアリズムの立場ではない」ということでね。「パートナーシップ」は一緒にやっていこうということで。お金を出せなかったから発展しなかったということになるかもしれないけれども、もらった援助が効果的であったかどうかは「パートナーシップ」の観点から、「アフリカが使わなければならない」という意識をもってもらえばやれるということです。そういう意味で、TICAD Iの宣言文は、うまく受け入れられたのです。

〇先例がない中でアフリカから多くの閣僚や元首が来日するということで、とても大変なお仕事ですよね。
●TICAD Ⅰではすべての閣僚や大統領が来日したわけではありませんでした。閣僚はかなりの数が来ましたが、大統領は3人だったと思います(実際は5人)。GCA(Global Coalition for Africa)の共同議長がボツワナの大統領。ガーナのローリングス大統領やウガンダのムセベニ大統領にもよろしくとあいさつをしました。テーマ別に議長を務めて頂く交渉も行いました。ムセベニ大統領官邸のお庭で机があって椅子が二つ。そこに立ってうまく交渉することができました。ローリングス大統領の方は、向こうに行って、カーテンを引っ張り出してね。アフリカの中の女性運動の中でローリングス夫人は非常に勘があった方でした。実はちょうどこの時期に来ていただいて顔を出していただきたいということでお願いをしていました。
みんなまだ若いころでしたね。ムセベニ大統領は非常に優れた方で、ユーモアのセンスもすぐれておられ、また大統領を務められるでしょうね。彼を超えるような人はいないようです。

〇TICADⅠはどう受け取られたのでしょうか。
●一つのまとまりとして宣言文ができあがって、みな喜んで帰っていきました。そして、せっかく元首や閣僚が来た以上はということで、当時の総理から援助の増額を含めて言及していただき、何年かにわたって着実に実施してきたわけです。ですので、どこかの国が「日本は口は上手くないけれどもちゃんとやってくれた」という意識はあって、第二回目の時は私もレセプションに呼ばれ、スワジランドの王様から「日本はいいなあ、アフリカのトップが一堂に会した」と大変感謝されました。「このような会議をアフリカでもやりたい」と。私からは「Why not!(やればいいじゃないの)」と返しましたけどね。我々としては経験もありますし、お教えしますよと自由に意見を日本に出していました。私はTICAD Iが終わってからスイスに行って、それからTICAD Ⅱでしたのでね。
準備をするのも大変です。各国元首の航空賃や宿舎、各国随行者二人までの経費が出るわけですがね。でも、集まってみんなで「久しぶり」ということになりますしね。それによってアフリカが日本に認識を新たにしたということは言えると思います。
とにかく初めてで先例もありませんし、でもやらなければならないということでしたのでね。

〇そして現在まで続くようになったのですね。
●これも第一回の宣言文の最後35パラグラフに、「我々は共同共催者たちに、Before the turn of the Century(今世紀の終わりまでに)」、つまり2000年の前に同じようなレベルの同じような人数で同じような会合を開くことを要請するということが盛り込まれました。このような文言は、最初の原案には何もなかったのですよ。会議がこれで終わってはいけないということで、話をして盛り込まれることとなりました。あとは時期を決めて日本がやるという意思を決めればいいという感触で、盛り込まれたわけです。国際会議というものは、やる気になればいくらでもできますが、一言があったからこうして5回続いているということは言えなくもないと思います。

黒河内大使3

〇TICAD Iのころは、NGOはあまり表舞台に出てこなかったのですね。
●NGOに対して積極的にやる立場にない段階、つまり第一回の時は本当に政府とか国際機関の関係者しか動いていませんでした。私はそれ以外のことに目を向ける間もなしに、なるべく一部で進めるような形になっていました。だけども、せめてNGOの方の宣言文(提言書)は出席者がコピーを持って帰ってもらえるようにしました。
それに合わせて、はじめのころは「Global Coalition for Africa(アフリカのための世界連帯/GCA)」が非常にいい人材を集めていた。アフリカで優秀だが国から亡命した人々が集まっていたのです。ロバート・マクナマラ元世銀総裁がみて集めたように聞いています。UNDP局長の一人がリベリア人女性エレン・ジョンソン・サーリーフ氏(後年のリベリア大統領)です。これだけ優秀な人材がいる中に私も入って議論して何かを起こせるこということはありませんでした。ましてや日本のNGOもたくさん優秀な方がいらっしゃるのに、当時私はほとんどノータッチで申し訳なさもありましたので、TICADが終わってからできるだけNGOとのコンタクトを多く持つようにしました。
ですから、「It’s never too late」。気が付いて動き出すのに遅すぎるということはないということです。

〇黒河内さんの政府側としての関わり方と、現在NGO側から活動されているお姿は、とても感銘を受けます。
●立場が変わったということでもありません。「アフリカが立ち行く」ようにしていかなければならない。そのためにはお金や物、人材も必要です。世銀やIMF、GCA、UNDP、UNOSCAL(Office of the Special Coordination for Africa and Least Developed Countries)(現在のUNOSAA)。UNOSCALの中に池上さんがいらっしゃいました。
池上さんには日本に出張していただいて国連の議事運営の諸相についてアドヴァイスしていただき、人的資源を補うこともありました。

〇最近はNGOの活動も組織化し、活発になってきました。
●第二回の時にはNGOの会合を本会議に先立って大阪で開催し、宣言文をまとめ、本会議で配り、そこで当時のカメルーンのNGO代表にスピーチの機会が与えられました。そして、当時米国国務長官が議長としてみなさんにTake noteしてくださいということで出していたことはあります。

〇黒河内さんは現在NGOの側から活動をされていて、最近のTICADの動きをどのように見ていらっしゃいますか。
●第三回、第四回は、私はほとんど細かな準備に入っていませんでしたが、NGOの枠内で本会議を傍聴することもあって多少ともつながりをもちましたが、あまり前に出すぎてもいけませんからね。精々過去の例からこうしたほうがいいとか。
例えば座席についてはアルファベット順に並んでいますが、国連ではそういうことをしません。昔はどうかわかりませんが、いつも端っこに座らされては面白くありませんから、くじ引きをして出てきた国が一番に立ってそこからアルファベット順になります。第一回の時は座席ついてはよく相談しました。教壇式ではなく、お互いに顔がみえる円卓式にしようと。そうしてスタートしました。こうして「やった方がいいですよ」ということは言いますけれども、うまくいっているかどうかは分かりません。NGOの場所を取れればよいのですが、政府関係者や国際機関がいるところできちんと取れないと、変なところでケチがつきますからね。心の中ではいろいろ考えながら、言うか言わないか頭で考えたりしています。
オブザーバーとしての参加。私はそれでいいとしています。そこにいて自分の何かの時の肥やしにしています。

最近私が気にしているのは、昔は議題に合わせてNGOの提言書を作っていましたが、最近はそこまで議題を事前に作っているというような気がしません。昔の記憶ではみんなで作って寄せ集めていた覚えがありますが、そのような声は聞きません。会議のアジェンダに合致した提言書にしなければなかなかかみ合いません。提言書を作る際には何をどうするというアジェンダが決まっていなければなりません。それから、参加者がどれだけ意見を出してそれが反映されているかどうかが分かるか分からないかによって、継続していく人たちの熱意にブレが出てきます。ここがなかなか難しいところです。
それから、第一回の時には亡命した優秀な人材がGCAに集まっていました。彼らが一所懸命いろんな経験をもって文書、サマリー作りをして提言書にまとめていくという、このような能力がある人が大勢いました。ですが、今はGCAがなくなって彼らがどこに行ったのかが分かりません。本当であれば日本に呼んでいつも協力していきたいと思いますがね。人を呼ぶにもお金がかかりますから。だから、英語やフランス語ができてサマリーをつくり、提言書のドラフティングができる人がもっともっと必要ですね。

〇次回のTICAD VIはケニアのナイロビで行われます。
●今度のTICADをナイロビでやるとすると、その後ずいぶんできてホテルもたくさんありますので大丈夫かと思いますが、そのようなところまできちんとみなければなりません。ましてやNGOの代表者が行ったとしても、きちんとした手配が必要です。現在は現地のNGOもたくさんいますので大丈夫だと思いますけどね。だから、ナイロビはとてもいいところですが、ソマリアから侵攻者が来ることもありますし、部族間の闘争もありますので、うっかり変なところに巻き込まれると大変ですから、それは気を付けなければと思っているところです。
そして、もっとTICADに関係するNGOの資金をたくさん集めていくことが課題です。

〇最後に黒河内さんは、今後の日本とアフリカの関係、どのように見ていらっしゃいますか。
●日本とアフリカの関係はかなり多角的になってきています。かなり交流活動のモメンタムが増えてきているという意識はあります。例えば元ナイジェリア人のタレントボビーさんやギニア人のサンコンさんなど。彼らを抱えていること、人的交流を進めていくことが我々にとってもプラスになります。
それから、アフリカとの国際結婚もかなりあります。古い人は抵抗感をもつ人もありましょうが、国際結婚はとても重要なことです。これを受け入れられるような感覚を皆さんが育ててくれることを期待しています。そのような意味で、今度の会合でそのような気持ちが一層深まればと思います。

(東京都台東区内喫茶店にて)

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